チャイナリテールの真実

中国市場開放から17年、いまその歴史を知る理由

第1回未成熟な市場が徐々に成長を遂げた2000年代の中国

いまや日本の大都市圏だけでなく、全国で中国大陸からの観光客を目にするようになった。「爆買い」と、一部マスメディアに揶揄された時代は過ぎ、着実に経済力を蓄えた中国の人たちは、もはや日本にとって大きな「消費者」になった。かつて「世界の工場」と呼ばれていた中国が、なぜここまでの経済力を持つにいたったのか。きっかけは言わずもがな、2001年末のWTO(世界貿易機関)加盟である。それから18年あまり。中国の国内市場に何が起きていたのか、2回に分けてお話しする。

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WTO加盟以前から先行投資に注力した欧米企業

2001年12月、中国のWTOへの正式加盟が発効し、中国は経済発展を目指して国際的な市場開放に踏み切った。3年以内の貿易自由化、2005年までに輸入割当等の原則撤廃などの経済改善が課せられたが、一気に自由化することで市場に混乱が生じるのを避けるため、関税の引き下げは10年という猶予が与えられ、さらに期間限定ながらも経済的セーフガードなどの保護措置も準備された。

WTO加盟がほぼ確定した2000年頃から現在までの18年あまりを、私は大きく「受入期」「適応期」「成長期」「衰退期」「転換期」の5つに分けられると考える。

現在、世界中で積極的に購買活動を行う中国の消費者が生まれた背景を理解するためにも、まずは2016年までの4つの時期について、それぞれ中国の市場に何が起きていたのか、外資の動きや消費者の意識の変化などを見ていこう。

WTO加盟前の中国の流通といえば、地域に国営企業の店舗が点在している状態だった。店内にはショーケースが並び、消費者はガラス越しに商品を選ぶ光景を、昔の映像などで見たことがある人もいるかもしれない。その他に百貨店や個人経営の小さな店舗もあったが、私たちが見慣れている総合スーパーやドラッグストアはまだこの時期はなかった。

1990年代になると中国市場の自由化を見据えて外資企業が積極的に中国進出を進めたが、それより前の1980年代に、すでにアメリカのP&Gやナイキ、ヨーロッパのユニリーバ、ネスレ、さらには日本の資生堂やカネボウなどが中国に進出していた。

P&Gやユニリーバに代表される欧米の企業は、商品が売れることよりも、どちらかといえば将来に向けた宣伝の意味合いが強かった。1980年代の中国では平均月収が30~50元だったのに対して、例えばラックスの石けんは1個10元、ネスレのコーヒーは1瓶35元だったのだ。一般消費者の手に届くわけがない価格である。それでもブランド名や商品名を中国の消費者の記憶に刻み込むことが優先と考えていた。

いまでこそ、中国で宣伝を行うには大きな予算が必要になるが、当時の宣伝媒体費はまだ微々たるもの。欧米企業は先行投資として惜しみなく商品を投入し、宣伝を打ったのである。一方、資生堂やカネボウは宣伝ではなく、78年の日中平和友好条約など、「政治的な付き合い」の一環で中国に進出している。欧米企業と日本企業の考え方の違いがここにある。

他に繊維や車、部品、電化製品などの製造業が中国に工場を構えた。当時の中国は人件費が安く、それ故に「世界の工場」としての機能を果たしていたのである。その一方で、輸入品は関税が高かったためになかなか国内では流通せず、価格も非常に高価であった。

受入期 2000~2003年:売り手側の整備、未成熟な買い手

中国のWTO加盟が間近に迫る2000年ごろから、中国市場の外資の「受入期」が始まる。カルフール、テスコ、ウォルマート、イオンなどの小売業者がこぞって流入。今では中国、ヨーロッパに大規模展開するワトソンズをはじめとするドラッグストアよりも、まずはカルフールなどスーパーマーケットが先に進出を果たした。ちなみに2003年にはカルフールは、杭州に中国国内40店目を開業している。

ブランドでいえば、シャネル、ディオールなどの超一流のアイテムだけでなく、ジョンソン・エンド・ジョンソン、ロレアル、花王など日雑系も店頭に商品が並ぶようになった。

<この時期の主な消費者層>
当時、一番お金を使う層は1950年代生まれ、60年代生まれの人たちだった。そのころ40~50歳前後の人たちだ。収入が安定している官僚だけでなく、個人で会社を作ることができるようになったことで経営者が数多く生まれ、経済力を持ち始めた。この人たちが、この時期以降に押し寄せる外資の主要な消費者となった。

<購買習慣の変化>
1949年から80年まで、中国はまるで「鎖国」のようなムードにあった。混沌とした時代である。そのころに生まれ、育ち、大人になった50年代生まれ、60年代生まれの消費者たちは、2000年を迎えてさえも、古い生活習慣や消費の観念を捨て去れずにいた。お金の使い方を知らない世代、とも言えるだろう。

一例を挙げると、品質の問題もあったと思うが、当時石けんで顔を洗うという習慣はなく、いまでこそ一般的になった「洗顔石けん」は使い方が理解されず、当然まったく売れなかった。

<輸入品の販売地域>
地域の差は歴然として大きかった。1980年代から特区として別格の扱いを受けていた深圳を筆頭に、市場開放の前から貿易が活発で、工場が数多く並ぶ沿岸地域は栄え、貧しい北部や内陸地域の人々は少しでも多く稼ぐために、沿岸地域の工場へ出稼ぎに行くしかなかった。それ故に人が集まり、沿岸地域はさらに活性化していた。

当然ながら、百貨店や外資系の総合スーパーは沿岸都市部に集中し、消費者はそこで輸入品を購入したのである。外資系のスーパーではオープンな棚に商品が並び、商品を自由に手に取れるようになっていた。それまでガラスのショーウインドー越しに商品を選んでいた中国の人たちにとって驚きであり、楽しみにもなった。

<外資の宣伝メディア>
テレビ、新聞、雑誌、看板。

中国地域区分地図

適応期 2004~2007:売り手の混乱、システム作り

外資の流入の次に起きたのは、商習慣の違いによる混乱である。

フランス、アメリカ、台湾、香港など、各国の外資系企業がそれぞれの国の経営手法や商習慣をそのまま中国に持ち込み、自分たちの決めたルールで取引を始めた。やり方が違う同士が交渉をするのだから、当然、混乱が起きた。

リベートはどのくらいにするのか、そもそもリベートをどういう項目として支払うのか、販促金か広告費か税金か、それによって税率や利益率が変わって、ひとつ間違うと企業は大きな赤字を抱えることとなる。リベートに代表される、経営や商習慣の違いを調整して、一つずつ詰めていくのが営業の仕事だったが、日本企業は当時、欧米の企業に比べて柔軟性が足りなかったために、相当痛い目を見たはずだ。

もう一つの大きな問題として人材管理というテーマもあった。1950年代生まれ、1960年代生まれの人たちは過去の働き方から脱皮できずにいる。指示したことをしない、仕事をせずにお茶を飲んでいる、そういう人が多かった。外資企業は国営企業と違って雇用契約を結んでいるので、働かない人はやめさせるという手法も取れたが、そんな単純な話ではない。働かない人を働かせるため、どの企業も頭を悩ませていた。

中国には大きな市場がある。それは分かっていても、どこでどうやって売るのか、流通を誰に任せて、どのように取引をするのか、どのように経営していくのかのルールがなく、イチから組み立てる必要があった。混在する多様なルールを調整し、システムを作っていった時代といえるだろう。

<この時期の主な消費者層>
前述の1950年代生まれ、1960年代生まれに加えて、1970年代生まれ(30歳前後)が登場する。給料は高くなってきたとはいえ、現在に比べたらまだ低かった。一流企業に勤めていればそこそこの生活はできるものの、輸入品はいまだ高価な時期。日本では500円前後のシャンプーやリンスが中国に輸入されると1000円ほどとなり、一般の消費者には気軽に買える値段ではない。

<購買習慣の変化>
大きな購買力を持った1950年代生まれ、1960年代生まれの人たちは、引き続き自分の生活習慣や消費の考え方を変えることができずにいたが、時間の経過とともに輸入品に対する認識は大幅に向上してきた。

1970年代生まれの人たちは海外からの情報に慣れており、輸入品への抵抗感もないことから、1950年代生まれ、1960年代生まれの人たちもその影響を受け始めるのがこの時期である。
それでも商品に関する知識や理解はまだまだ弱く、多くの人が商品の良しあしを価格で判断する傾向にあった。

<輸入品の販売地域>
受入期とほぼ変わらない。消費者は沿岸部の都市に集中する百貨店、外資系の総合スーパー、ワトソンズなどのドラッグストアで輸入品を購入していた。
ちなみに2007年にワトソンズは約300店舗、カルフールは約80店舗を展開している。

<外資の宣伝メディア>
従来通りのテレビ、新聞、雑誌、看板。

中国市場がめざましい躍進を見せるのは、2008年以降から始まる「成長期」である。消費者の意識も変化し、中国での販売システムを作り上げた外資は内陸へと手を広げていく。ネット販売も始まり、さらに拡大していく中国市場については、次回お話ししよう。

著者プロフィール

万俊人
万俊人マントシヒト

1989年1月留学のため来日。1995年日本国内卸売、日中貿易を業務とする株式会社萬栄設立。2000年日系企業の中国進出コンサルティング、マーケティング調査事業開始。2010年中国における卸売、日韓商品輸入販売業の上海長発豊源薬粧(集団)有限公司副総裁就任、2016年退任。2016年GBmonoJAPAN設立。2017年より日本の医薬品、化粧品を中国語で紹介するスマホアプリ「集匠」の運用を開始する。