沿岸から内陸へ、変化する中国経済

WTO(世界貿易機関)加盟から18年近く。かつては安い労働力を求めて海外企業の工場が林立した中国は、着実に経済力を蓄え、いまや大陸内だけでなく世界中で消費活動を行うほどの力を持つに至った。前回はWTO加盟直前から始まった「受入期」とそれに続く「適応期」について話をした。2回目となる今回は、2008年ごろから始まる「成長期」、そして「衰退期」へと話を進めてみよう。

WTO加盟後の中国の市場は、前回お話ししたとおり、「受入期」「適応期」「成長期」「衰退期」という段階を踏んで変化を遂げてきた。

WTO加盟直前の2000年頃から海外企業が一気に流入。企業側も消費者も、初めて体験する経済変化の中で、大きく混乱した。しかし時がたち、企業も消費者も成長するにつれ、次第に落ち着きを見せ始める。

そして2008年ごろになると、まるで春を迎えた桜のように、中国市場は一気に花開くのである。

成長期 2008~2012年:経済の著しい成長、内陸への拡大

中国市場は2008年を向かえるころから「成長期」に入り、GDPは急な上り坂のカーブを描いて伸びた。ちょうどその年、世界市場はリーマンショックにより致命的な打撃を受けたが、当時の中国には信用取引というものがほとんどなかったために、株を所有していた一部の層以外に大きな影響はなかったのも幸いしたかもしれない。

それまで続いていた「適応期」の混乱は、この時点でクリアになったわけではなかったが、取引の手法は徐々に足並みが揃い始め、企業もやり方に慣れて落ち着きを見せていた。

物流面でも、それまでは倉庫、トラックいずれも整備されていなかったために、例えば東北地方に移動させた商品が、マイナス30度という環境で凍ってしまってダメになってしまうなどのトラブルが起きていた。それが整備され、きちんとした商品が適正に管理されて流通するようになるのがこの時期である。

特筆すべきは、化粧品専門店(CS)の登場だろう。年配のオーナーが経営するパパママ系とは違い、20~30代の若いオーナーが経営しているのが特徴で、現在30万~40万店舗あるとされている。分かりやすいところで言えば香港の化粧品専門店「Sasa」のような業態である。1980~90年代に急成長したが、WTO加盟後、化粧品メーカー各社が、店舗数の多いこのCSに目を付け、新たなチャネルとして開拓を試みた。

しかしここに一つ問題があった。CSに並ぶ商品は必ずしも正規品ではなく、コピー商品や正規の仕入れを経ていない「横流し商品」も多く含まれていた。それが化粧品メーカーにお墨付きをもらって正規品の代理店になるというねじれが生まれた。案の定、適応期には代理店の看板のもとコピー商品を売るという事態も発生し混乱したが、ようやく安定。「成長期」に急成長した業態と言える。

海外メーカーが現地生産を始めるようになったのもこの時期だ。しかし、ここにも問題があった。現地生産をすると、その商品は「メイド・イン・チャイナ」のラベルが貼られる。ターゲットである富裕層は、これを嫌がった。当時は今以上に「メイド・イン・ジャパン」のラベルのある商品が好まれていた時代だったからだ。「メイド・イン・チャイナ」の商品を売るために余計な販促費がかかって、かえってコストが高くつく、というようなことも起きたのである。

その対応策として、例えば化粧品であれば同じシリーズの中の一商品だけを現地生産にして、残りはこれまで通り輸入品を並べるなどしたが、残念ながら現地生産に失敗した企業もたくさんあった。

消費者について言えば、経済の中心でもあった沿岸地域を中心に不動産の価値が上昇し、不動産で資産を増やす人たちも現れた。こうして各業界が成長し、うまく回り始めると、収入も雇用も増え、それがさらに消費の拡大につながった。経済的に一番良い時期だったと言えるだろう。
こうして沿岸地域は成熟期を迎えたが、同時に不動産価値の高まりは企業の経営を圧迫し始めた。製造業は不動産の安い内陸を開拓。内陸に工場が建設され、そこに雇用が生まれ、その周りに店舗も増えていく。それまで沿岸地域に人手を奪われるだけだった内陸が、経済発展の次の中心地として表舞台に立ったのである。

中国の一人当たりのGDPと実質GDP成長率

●主な消費者層
消費の中心であった50年代生まれのボリュームが減り、代わりに80年代生まれ(20代)が登場する。

●購買習慣の変化
収入が増加し、安定してきたことで、これまでは手が出なかった高価な輸入品の需要が高まり、種類も豊富になる。インターネットの浸透で商品に対する情報はたくさん入るようになり、20代、30代は古い習慣にとらわれることがなかったため、輸入品、海外企業の商品を抵抗なく受け入れるようになった。

●輸入品の販売地域
それまでの沿岸地域偏向から、内陸の主要都市へと拡大。百貨店、外資系総合スーパー、ドラッグストアの他に、化粧品専門店(CS)、そしてオンライン販売(EC)が現れる。
2012年末、香港系ドラッグストア、ワトソンズの中国店舗数は約1500店舗。フランスのカルフールは2013年末に236店を数えた。

●外資の宣伝メディア
テレビ、新聞、雑誌、看板、インターネット、口コミ。

衰退期 2013~2016年:百貨店や総合スーパーの収縮、ECの台頭

2013年ごろから、市場は「衰退期」に突入した。爆発的に発展してきたように見えていたのがなぜ「衰退」したのか。

どの業態も売上は上がり、中国の経済力はさらに強固なものになっていたが、不動産価値の高騰と人件費の高騰により、店舗経営は大きなダメージを受けた。百貨店や総合スーパーなどの大規模な業態は中心地から撤退し、郊外型への転換を余儀なくされたのだ。日本やアメリカでは数十年の時間をかけて起きたことが、中国ではほんの数年の間に、まるで早送りのように起きてしまったのである。

いまでは、沿岸地域の飲食店は求人募集をしても働き手が見つからないくらいに人手不足に陥っている。それまでは内陸から出稼ぎに来ていた人たちで補っていた人手を、いまはフィリピンやマレーシアの人たちが補っている。これも日本と似た状態であろう。

一方、面積の小さいドラッグストア(DgS)やCSは比較的安定していた。中でも伸びているDgSのワトソンズは、売場をカテゴリー、サブカテゴリーといった基準で分けせず、「一什器一企業」、すなわち一つの什器をまるまる一つのメーカーに任せるという、場所貸しのような形態を取っている。この手法で大きな売上げを上げているのも事実だが、カテゴリーを育てていく方向に転換しないと、将来的な伸びは見込めないだろう。しかし、一度できてしまった形を変換させるのは容易なことではないようだ。

そしてここに、EC(オンライン通販)という新たな障壁が登場する。2013年ごろの通信手段はスマートフォン(スマホ)ではなく、まだパソコンが中心で、商品は価格が勝負だった。またこの時代に生まれたのが個人輸入代行だ。個人や中小企業がごく小規模に海外の商品を輸入し、中国国内に届けていた。日本で中国人観光客の「爆買い」と揶揄されたのは2015年ごろのこと。人気のある日本製の商品を大量購入して転売する。そうした販売網を成立させていたのもインターネットだった。

これ以降、ECは猛烈な勢いで売上を伸ばしていく。百貨店、総合スーパー、DgSといった業態はことごとく、ECの成長に伴って打撃を受けることになるのである。

●主な消費者層
ECの普及などもあり、消費者層に新たに、パソコンに抵抗のない90年代生まれ(20代)が加わる。90年代生まれは物心ついたときにはすでに中国が発展を始めており、中国が停滞した時代を知らない。一人っ子が多いため、望めば何でも手に入る世代、日本で言えば団塊ジュニアのような位置づけと言える。以後、パソコンであらゆる情報を手に入れられる世代が増えていく。

●購買習慣の変化
若年層のEC消費が拡大し、海外から商品を取り寄せる「個人輸入代行」が伸び始める。これが後の越境ECの成長につながることになる。

●輸入品の販売地域
大規模な店舗を構える百貨店、総合スーパーは沿岸の中心地から内陸の郊外型への転換が進んだ。面積の小さなドラッグストアやCSは比較的安定を見せている。
2016年、ワトソンズの中国国内店舗数は2,500店舗を超えたが、客単価は100元代で伸び悩んでいる。カルフールをはじめとする総合スーパーは成長が緩やかになり、経営不振に陥り始める。

●外資の宣伝メディア
テレビ、新聞、雑誌、看板、インターネット、口コミ。

ECにとっては「成長期」の始まり

WTO加盟後の中国市場はこの様に、4つのステップを踏んで成長してきた。

2013~16年を「衰退期」としたが、これはあくまで、これまであった業態から考えたときの表現である。ECの観点から言えば、成長期とも言えるだろう。

パソコンの普及に伴って、若い世代を中心にEC消費は伸びを見せはじめ、やがてスマホの登場でECという新しい業態は爆発的な飛躍を遂げることになる。この時期、中国にはすでにアリババ系をはじめとして、10以上のECサイトが生まれている。

ECが中国市場にもたらした変革について次回以降、詳しく見ていくことにしよう。

未成熟な市場が徐々に成長を遂げた2000年代の中国

いまや日本の大都市圏だけでなく、全国で中国大陸からの観光客を目にするようになった。「爆買い」と、一部マスメディアに揶揄された時代は過ぎ、着実に経済力を蓄えた中国の人たちは、もはや日本にとって大きな「消費者」になった。かつて「世界の工場」と呼ばれていた中国が、なぜここまでの経済力を持つにいたったのか。きっかけは言わずもがな、2001年末のWTO(世界貿易機関)加盟である。それから18年あまり。中国の国内市場に何が起きていたのか、2回に分けてお話しする。

WTO加盟以前から先行投資に注力した欧米企業

2001年12月、中国のWTOへの正式加盟が発効し、中国は経済発展を目指して国際的な市場開放に踏み切った。3年以内の貿易自由化、2005年までに輸入割当等の原則撤廃などの経済改善が課せられたが、一気に自由化することで市場に混乱が生じるのを避けるため、関税の引き下げは10年という猶予が与えられ、さらに期間限定ながらも経済的セーフガードなどの保護措置も準備された。

WTO加盟がほぼ確定した2000年頃から現在までの18年あまりを、私は大きく「受入期」「適応期」「成長期」「衰退期」「転換期」の5つに分けられると考える。

現在、世界中で積極的に購買活動を行う中国の消費者が生まれた背景を理解するためにも、まずは2016年までの4つの時期について、それぞれ中国の市場に何が起きていたのか、外資の動きや消費者の意識の変化などを見ていこう。

WTO加盟前の中国の流通といえば、地域に国営企業の店舗が点在している状態だった。店内にはショーケースが並び、消費者はガラス越しに商品を選ぶ光景を、昔の映像などで見たことがある人もいるかもしれない。その他に百貨店や個人経営の小さな店舗もあったが、私たちが見慣れている総合スーパーやドラッグストアはまだこの時期はなかった。

1990年代になると中国市場の自由化を見据えて外資企業が積極的に中国進出を進めたが、それより前の1980年代に、すでにアメリカのP&Gやナイキ、ヨーロッパのユニリーバ、ネスレ、さらには日本の資生堂やカネボウなどが中国に進出していた。

P&Gやユニリーバに代表される欧米の企業は、商品が売れることよりも、どちらかといえば将来に向けた宣伝の意味合いが強かった。1980年代の中国では平均月収が30~50元だったのに対して、例えばラックスの石けんは1個10元、ネスレのコーヒーは1瓶35元だったのだ。一般消費者の手に届くわけがない価格である。それでもブランド名や商品名を中国の消費者の記憶に刻み込むことが優先と考えていた。

いまでこそ、中国で宣伝を行うには大きな予算が必要になるが、当時の宣伝媒体費はまだ微々たるもの。欧米企業は先行投資として惜しみなく商品を投入し、宣伝を打ったのである。一方、資生堂やカネボウは宣伝ではなく、78年の日中平和友好条約など、「政治的な付き合い」の一環で中国に進出している。欧米企業と日本企業の考え方の違いがここにある。

他に繊維や車、部品、電化製品などの製造業が中国に工場を構えた。当時の中国は人件費が安く、それ故に「世界の工場」としての機能を果たしていたのである。その一方で、輸入品は関税が高かったためになかなか国内では流通せず、価格も非常に高価であった。

受入期 2000~2003年:売り手側の整備、未成熟な買い手

中国のWTO加盟が間近に迫る2000年ごろから、中国市場の外資の「受入期」が始まる。カルフール、テスコ、ウォルマート、イオンなどの小売業者がこぞって流入。今では中国、ヨーロッパに大規模展開するワトソンズをはじめとするドラッグストアよりも、まずはカルフールなどスーパーマーケットが先に進出を果たした。ちなみに2003年にはカルフールは、杭州に中国国内40店目を開業している。

ブランドでいえば、シャネル、ディオールなどの超一流のアイテムだけでなく、ジョンソン・エンド・ジョンソン、ロレアル、花王など日雑系も店頭に商品が並ぶようになった。

<この時期の主な消費者層>
当時、一番お金を使う層は1950年代生まれ、60年代生まれの人たちだった。そのころ40~50歳前後の人たちだ。収入が安定している官僚だけでなく、個人で会社を作ることができるようになったことで経営者が数多く生まれ、経済力を持ち始めた。この人たちが、この時期以降に押し寄せる外資の主要な消費者となった。

<購買習慣の変化>
1949年から80年まで、中国はまるで「鎖国」のようなムードにあった。混沌とした時代である。そのころに生まれ、育ち、大人になった50年代生まれ、60年代生まれの消費者たちは、2000年を迎えてさえも、古い生活習慣や消費の観念を捨て去れずにいた。お金の使い方を知らない世代、とも言えるだろう。

一例を挙げると、品質の問題もあったと思うが、当時石けんで顔を洗うという習慣はなく、いまでこそ一般的になった「洗顔石けん」は使い方が理解されず、当然まったく売れなかった。

<輸入品の販売地域>
地域の差は歴然として大きかった。1980年代から特区として別格の扱いを受けていた深圳を筆頭に、市場開放の前から貿易が活発で、工場が数多く並ぶ沿岸地域は栄え、貧しい北部や内陸地域の人々は少しでも多く稼ぐために、沿岸地域の工場へ出稼ぎに行くしかなかった。それ故に人が集まり、沿岸地域はさらに活性化していた。

当然ながら、百貨店や外資系の総合スーパーは沿岸都市部に集中し、消費者はそこで輸入品を購入したのである。外資系のスーパーではオープンな棚に商品が並び、商品を自由に手に取れるようになっていた。それまでガラスのショーウインドー越しに商品を選んでいた中国の人たちにとって驚きであり、楽しみにもなった。

<外資の宣伝メディア>
テレビ、新聞、雑誌、看板。

中国地域区分地図

適応期 2004~2007:売り手の混乱、システム作り

外資の流入の次に起きたのは、商習慣の違いによる混乱である。

フランス、アメリカ、台湾、香港など、各国の外資系企業がそれぞれの国の経営手法や商習慣をそのまま中国に持ち込み、自分たちの決めたルールで取引を始めた。やり方が違う同士が交渉をするのだから、当然、混乱が起きた。

リベートはどのくらいにするのか、そもそもリベートをどういう項目として支払うのか、販促金か広告費か税金か、それによって税率や利益率が変わって、ひとつ間違うと企業は大きな赤字を抱えることとなる。リベートに代表される、経営や商習慣の違いを調整して、一つずつ詰めていくのが営業の仕事だったが、日本企業は当時、欧米の企業に比べて柔軟性が足りなかったために、相当痛い目を見たはずだ。

もう一つの大きな問題として人材管理というテーマもあった。1950年代生まれ、1960年代生まれの人たちは過去の働き方から脱皮できずにいる。指示したことをしない、仕事をせずにお茶を飲んでいる、そういう人が多かった。外資企業は国営企業と違って雇用契約を結んでいるので、働かない人はやめさせるという手法も取れたが、そんな単純な話ではない。働かない人を働かせるため、どの企業も頭を悩ませていた。

中国には大きな市場がある。それは分かっていても、どこでどうやって売るのか、流通を誰に任せて、どのように取引をするのか、どのように経営していくのかのルールがなく、イチから組み立てる必要があった。混在する多様なルールを調整し、システムを作っていった時代といえるだろう。

<この時期の主な消費者層>
前述の1950年代生まれ、1960年代生まれに加えて、1970年代生まれ(30歳前後)が登場する。給料は高くなってきたとはいえ、現在に比べたらまだ低かった。一流企業に勤めていればそこそこの生活はできるものの、輸入品はいまだ高価な時期。日本では500円前後のシャンプーやリンスが中国に輸入されると1000円ほどとなり、一般の消費者には気軽に買える値段ではない。

<購買習慣の変化>
大きな購買力を持った1950年代生まれ、1960年代生まれの人たちは、引き続き自分の生活習慣や消費の考え方を変えることができずにいたが、時間の経過とともに輸入品に対する認識は大幅に向上してきた。

1970年代生まれの人たちは海外からの情報に慣れており、輸入品への抵抗感もないことから、1950年代生まれ、1960年代生まれの人たちもその影響を受け始めるのがこの時期である。
それでも商品に関する知識や理解はまだまだ弱く、多くの人が商品の良しあしを価格で判断する傾向にあった。

<輸入品の販売地域>
受入期とほぼ変わらない。消費者は沿岸部の都市に集中する百貨店、外資系の総合スーパー、ワトソンズなどのドラッグストアで輸入品を購入していた。
ちなみに2007年にワトソンズは約300店舗、カルフールは約80店舗を展開している。

<外資の宣伝メディア>
従来通りのテレビ、新聞、雑誌、看板。

中国市場がめざましい躍進を見せるのは、2008年以降から始まる「成長期」である。消費者の意識も変化し、中国での販売システムを作り上げた外資は内陸へと手を広げていく。ネット販売も始まり、さらに拡大していく中国市場については、次回お話ししよう。

コメダがエキナカ新業態にコッペパンを選んだ理由

店舗数800店(2018年4月末現在)とフルサービスの喫茶店としては圧倒的な店舗数を誇っている「コメダ珈琲店」(以下、コメダ)。「喫茶店の機能」をブレることなく継続し、多数ある類似業態の中にあって成長を続けるコメダが、次なる業態として推進するのが「コッペパン専門店」である。そして、コメダが選んだ立地はエキナカ、ターミナルだった。

飲食店とは食事を提供する場であるが、喫茶店にとって食事はワンオブゼムで時間消費型の側面を持つ。コメダを象徴するフードメニューに「シロノワール」があるが、このデニッシュの上にソフトクリームの渦が乗ったとてもユニークな商品は、コメダに目的来店するファクターとして十分な存在感がある。

外食の記者にとってコメダのことが話題になったのは2000年に入ってすぐ、加盟店展開を拡充したころだ。筆者も「名古屋郊外に大繁盛の喫茶店がある」と聞きつけて同店を訪ねた。そこで気が付いたことは、ファミリーレストランをはじめとした周辺の飲食店とお客さまの利用動機が重ならないということだった。飲食店はランチタイムとディナータイムにお客さまが集中するが、コメダは午前中とティータイムに賑わう。こうしてコメダは他の飲食店と同一エリアで共存し、繁盛を維持しているのである。

そのコメダは今年創業50周年を迎えており、新業態に果敢にチャレンジしている。

具材次第でスイーツにも、食事にもなる

現在、コメダの新業態で「第2の成長エンジン」のように展開をしているのが「コメダ謹製やわらかシロコッペ」(以下、シロコッペ)である。

筆者のホームタウンはJR武蔵浦和駅であるが、今年の春先に駅構内の商業施設の一角が工事に入った。その囲いに「コッペパンの専門店が近日オープン」と書かれていた。武蔵浦和駅には既に大型のベーカリーショップが2店営業しており、これからパン屋さんを出店しても難しいのではと思っていた。しかしながら、その10坪足らずの店舗はオープンしていきなり長蛇の列ができる店となった。店名に「コメダ謹製」と冠を付けており、「コメダ」は今や全国区のブランドに育っていることを知らしめた。

コメダの新業態「コメダ謹製 やわらか シロコッペ」ロゴ

商品は白くて柔らかいコッペパンの中に、和洋のスイーツ系、そして食事系の具材が挟み込まれている。品目数は20程度で、季節感を抱かせる具材などでキャンペーンを行っている。

シロコッペの動向について、株式会社コメダホールディングス管理本部IR室、IR担当次長の野瀬和宏氏が解説してくれた。

コメダで提供されている主要食材は全て自社工場で製造されている。コーヒーの抽出も、パンの焼成も同様で自社工場から各店舗に配送している。こうしてパンの製造については相当のノウハウを蓄積してきた。パンの工場は、愛知に3カ所、千葉・印西市に1カ所となっている。

コメダはこれまで郊外の住宅街の生活道路沿いに出店してきたが、新業態は新立地を開拓するミッションもあった。新立地とはエキナカ、ターミナルなど、5坪から10坪の小さい物件で回転型のビジネスをするということだ。
そこで新業態は現在ブームになっているコッペパンに着目した。ブームの要因は「誰もがなつかしさを覚える食べ物」「SNS受けする商品が登場」「どのような具材もマッチする」――さらに、手頃な価格設定になっているということだ。

そして、2017年4月から5月にかけて名古屋の名鉄百貨店本店の催事でテスト販売し、好評を得た。次に、実店舗として2017年9月東京スカイツリーの商業施設ソラマチの期間限定店舗を出店。そして、名鉄百貨店に常設店舗を出店した。2017年4月現在では9店舗となっている(全店直営)。

商品は同店の分類では「和コッペ」「洋コッペ」「おかずコッペ」となっている。和コッペは「小倉あん」220円(税込、以下同)、「小倉マーガリン」250円、「小倉ホイップ」280円。洋コッペは「クッキー&バニラクリーム」250円、「フルーツホイップ」330円、「栃木県産とちおとめ いちごジャム」280円など。おかずコッペは「シャキシャキごぼうサラダ」290円、「めんたいポテサラ」360円、「ポークたまご」390円など。

コッペパンの中身は多彩。スイーツ、軽食どちらとしても利用できる

フレッシュなクオリティを特徴とする

商品はパンと具材がそれぞれパーツとして店舗に配送され、店舗ではパンをカットして具材をペーストないしは挟み込みという調理を行う。これによってフレッシュなクオリティを保ちロス対策を行っている。

こうしたオペレーションでお客さまの利用動機や利用時間、そして客層も偏ることがない。現状20品目をラインアップしているが、満遍なく売れている。現状展開している店舗は5~10坪で月商500万~1000万円となっている。商品の特性から店内に火を必要としない。だから、初期投資が低く、オープン1~2カ月で回収できている。

さらに今年3月、新業態の「コメダスタンド」を東京・池袋サンシャインシティ専門店街「アルパ」1階にオープンした。「都会の山小屋」がコンセプトでログハウス風の内装で4Kモニターに投影する風景画像を投影している。サービスはセルフ式でシロコッペの商品とコーヒーをはじめとしたソフトドリンクをスタンディングで飲食するという業態だ。

コメダスタンドの店内

シロコッペやコメダスタンドともに、直営店で展開し、時間をかけて収益モデルを作っていく意向だ。野瀬氏はこう語る。

「仮にコッペパンブームが終わり、シロコッペも売上が低迷するようになっても撤退に備えられるようにして、新業態の開発を推進しています」

2018年度はシロコッペの新規出店を15~20店舗、コメダは55~60店舗を新規出店する計画。現状海外にはコメダを5店舗出店しており(上海4店、台湾1店舗)、2021年2月期には海外を含めてグループ全体で1000店舗を目標としている。