ハックドラッグ創業者石田 健二氏「ドラッグストアの歴史は 新しい業態への挑戦の歴史です」

ドラッグストア(DgS)の歴史を薬局・薬店の勃興期から知る「生き証人」である、ハックドラッグ創業者の石田健二氏に、目覚ましい成長を遂げたDgSの本質を聞いた。(聞き手/月刊MD主幹 日野 眞克)(月刊マーチャンダイジング2024年1月号より転載)

  • Facebook
  • Twitter
  • Line
  • Hatena

薬局・薬店は近代化が一番遅れた「業種店」

─過去30年間でDgSは急成長を遂げました。DgSが急成長する前の勃興期について教えてください。

石田 薬局・薬店は業種店として近代化が一番遅れた業界です。大学卒業後に薬剤師になって家業の石田薬局に入ったのが1930年。薬局に調剤の機能がない時代です。医師から処方せんが来ることはなく、売上の大半は日用雑貨でした。

薬剤師として、地域の生活者のために、健康・ヘルス&ビューティケア(HBC)の部分で役に立つことができないかと考えていました。メーカーの系列店である「業種店」から、買い手視点の「業態店」に転換する必要がありました。

そのなかで1968年にアメリカに初めて行きました。アメリカに行くきっかけはコンサルタントの山口英夫先生との出会いです。全国から繁盛薬局の店主を集める山口学校という勉強会を開かれていました。

それ以降は、全国の繁盛薬局の店主との交流が始まりました。山口学校で出会ったのが現在のDgSやホームセンター(HC)の創業者です。

1965年にはペガサスクラブのコンサルタントの渥美俊一先生と出会いました。山口学校とペガサスクラブの勉強後は、アメリカのように「薬局のチェーンストア化」を目指すことを決断しました。家業を脱却して企業化を目指すきっかけになりました。

石田氏が初渡米した1968年ペガサスアメリカ西部セミナー。(サンフランシスコ・金門橋にて)

1968年のアメリカはHCが発展していた時代です。また、日本では売場面積が広いボーリング場が売りに出ていたタイミングでした。アメリカ視察後はアメリカ型のHCに転換して、薬局の近代化に挑戦する創業者もいました。

日本の薬局・薬店の時代は、調剤室を配置しても処方せんはほとんど来ませんでしたが、ドクターと話し合いができたあとは、神奈川県で一番処方せんを扱う薬局になりました。

しかし地元の医師会からの強い圧力があり、クリニックが処方せんを院外に出さなくなり、処方せんを医者にすべて無償で差し上げた時代もありました。

いまのDgSがたくさんの処方せんを受付けていることは、当時では考えられませんでした。

1979年、アメリカ型のスーパードラッグ開店

石田 アメリカ視察後の1976年には「ハックドラッグ杉田店(110坪)」、1979年にはスーパードラッグの「戸塚店(450坪)」をオープンしました。しかしオープンした当時は地元の商店にある、写真現像、食品などの品揃えは一切認められませんでした。「厚木店(450坪)」でも出店を決断してから開店するまでには5年もかかりました。地元の人を説得する必要があったのです。

450坪の売場を埋めるために、HCで売れていた「日用雑貨」を導入しました。日用雑貨はHCのDIYほど品揃えは深くないが、地域客の利便性を高めるカテゴリーです。

従来の薬局が取扱っていなかった「家庭用品」「台所用品」「キッチン用品」を仕入れるために、取引がなかった地方の卸と交渉しました。

HCで取扱う商品は、薬局の日用雑貨と比べると回転が遅く、資金が凍結する可能性がありました。手形は絶対に切らない方針だったので、仕入れの条件として「3ヵ月(90日)」の支払いサイトをつけました。

杉田店ではアメリカのDgSのように調剤の機能はまだなくて、HBCもアイテム数は限られていました。2000年代のパーソナルユースではなくて、シャンプーリンスも家族共用で1本を使うファミリーユースが中心の時代でした。シャンプーリンスも3尺一本で十分な生活スタイルでした。

戸塚店の敷地は1,000坪以上、駐車場は200台規模の大きさでしたが、満員になりました。新しいHCができたという感覚で、DgSという業態が日本で受け入れられるキッカケになったと思います。

DgSの歴史は法律との闘いだった

─薬局・薬店の近代化が遅れた最大の理由は、既存の薬局が「法律」に守られていたことだと思います。法律の変化は新しいビジネスが生まれるきっかけですね。

石田 薬局のチェーンストアに挑戦したくても、日本で新店を増やすには「適配条例」「大店法」の法律の壁がありました。

第1の壁は1963年に制定された「医薬品販売の適正配置条例(適配条例)」です。神奈川県の場合は、既存の薬局から150メートル離れないと新店を出せませんでした。距離制限が撤廃された1990年代までは薬局の出店は簡単ではありませんでした。

第2の壁は「大店法」です。大店法の規制が強かった1970~1980年代は、出店調整に長い時間がかかり、大量出店など夢のまた夢でした。

その後、1990年に大型店の出店規制が緩和されるようになり、売場面積150坪までの店舗は届けるだけで出店できるようになり、1990年代前半に、全国各地で多くの150坪DgSが出店しました。さらに、1999年に大店法が撤廃されると、200~300坪型の現在のDgSの原型の大量出店が始まりました。

薬局の系列化に対抗するAJD、NIDの発足

─大手製薬メーカーの系列店政策に対抗するために、ボランタリーチェーン(全国の薬局・薬店が資本を出しあって会社をつくったチェーン方式のこと)をつくったことについて教えてください。

石田 資生堂が「資生堂チェインストア」をつくり、大正製薬が「鷲の会」をつくり、1970年頃はメーカー主体の薬局の系列化が始まっていました。大正製薬は希望する薬局に資本を出し、レジを安く提供してくれました。大正製薬のFCのような系列店の薬局が増えていました。

ハックも鷲の会には入ると思われていたのですが、メーカーに資本参加されることには抵抗を感じたので入りませんでした。私以外の全国の薬局の店主も、メーカーの系列店が増えると、小売業としての主体性がなくなっていくだろうと危機感を持っていました。

また、販売価格を規制する「再販維持制度(再販制度)」という法律があり、メーカーが決めた価格を小売業が守らなくてはいけませんでした。DgSの主力の医薬品と化粧品は、再販制度によって定価が守られていたのです。

再販制度に守られた大手メーカーによる流通支配から抜け出して、全国の薬局・薬店の店主が資本を出し合って発足したのが、小売主体のボランタリーチェーンでした。代表的なボランタリーチェーンの「オールジャパンドラッグ(AJD)」と「ニッド(NID)」は1970年に設立しています。

1974年は千葉薬品+AJDが共同経営する、スーパードラッグの実験店(500坪)が千葉県作草部市でオープンしました。フード&ドラッグの発祥かつ日本で最初の本格的なDgSです。

「作草部店」の経営管理の責任者は私でした。ハックの店長を派遣して経験を積んだことが、1976年の杉田店、1979年の戸塚店をつくる原動力になったと思います。

スーパーの隣から外に出たウォルグリーン

─薬局・薬店から試行錯誤しながらDgSを目指していたわけですが、どういう役割を果たす業態になりたいと思っていましたか。

石田 アメリカのDgSを見て、調剤部門の面積の広さに驚きました。入って正面に大きくスペースをとって調剤部門があります。昔のアメリカのDgSの処方せん薬の売上構成比は、スーパードラッグでも20%近くはありました。

日本では処方せん薬は「公定価格」なので競争することはないですが、アメリカの薬価は自由なので、スーパーマーケット(SM)やディスカウントストアのウォルマートでも積極的に調剤を安売りしていました。

ほかの業態がDgSの核となる調剤を扱いはじめて、アメリカのDgSは危機感を持ちました。当時のアメリカのDgSは「乗り物」を変える必要があったのです。

スーパードラッグの売場面積をコンパクトにして、調剤主体のHBC+食品のフォーマットをつくったのが「ウォルグリーン」でした。

昔のDgSは、近隣型ショッピングセンター(NSC)の中で、スーパーマーケット(SM)の隣に立地していました。しかし、SMが調剤を強化したのでNSCから外に出て、生活道路の交差点沿いに出店するコーナーストアに出店しました。

より家から近い立地に出店することで、買物の便利性を強化して、SMと差別化しました。また、ドライブスルーファーマシーを始めることで、車から降りなくても調剤を受け取れるようになり、調剤を受け取る便利性を強化しました。

この新業態開発によって、ウォルグリーンの調剤は全体の売上の6割を占めるようになりました。

ウォルグリーンの成功要因は、①コーナーストアで立地の便利性をつくったこと、②調剤の信頼性と利便性を高めたこと、③ドライブスルーファーマシーで調剤を受け取る便利性をつくったこと、④24時間営業、⑤店舗のコンパクト化(300坪型)、⑥調剤併設型DgSづくりだったと思います。

ウォルグリーンやCVSは、新しいDgSの乗り物を1つのコンセプトとして、DgSの強みである調剤の全米ネットワーク化を完成させました。

一方、日本では1990年に薬の処方と調剤を分離する「医薬分業」が動き出して、分業率は0.7%増えて12%。院内処方せんがDgSで受け取れる時代が到来しました。

消費者の変化と法律の変化が転換期

─日本のDgSが急成長した理由は何だと思いますか。

石田 ウォルグリーン、CVSというDgSの新しい形が日本でも増えたことも1つです。1990年代以降につくられた日本のDgSはウォルグリーンをモデルにした店が多いです。

1999年、全国各地に増えたDgSをまとめる機会として、日本チェーンドラッグストア協会(JACDS)が発足したことも、日本のDgSが大きく発展する歴史的過程だと思います。

それと同時に、1999年に大店法が撤廃されて、全国各地にDgSをどんどん出店できるようになったという時代背景ができたことも、急成長を後押ししたと思います。

2002年には、経済産業省の商業統計調査に、初めて「ドラッグストア」という業態名が登場しました。それまでは薬局はあったが、ドラッグストアの統計はなかったのです。日本のDgSが新時代を拓いたエポックメイキングな出来事だったと思います。

規制があった時代に近代化が一番遅れた薬局・薬店から、DgSという新しい業態が確立されて、本格的なDgS産業の時代が来たのは2000年以降です。

一方、1990年代以降の「消費のパーソナル化」「生活者のライフスタイルの変化」も、DgSという新しい業態の成長を後押しして、DgSは日本の消費者に支持を得るようになりました。

次の業態を制するDXの革新

石田 過去を眺めてみると、アメリカも日本も1つの業態は10年・20年がターニングポイントであり、20年以上続いた業態を見ると、必ず新しい形に変わっています。

既存のフォーマットの中で試行錯誤しているだけでは存在しきれないと思います。薬局・薬店の成功体験を否定して、DgSという新しい乗り物を試行錯誤してつくり上げたように、イノベーション(革新)が新しい業態をつくるために重要だと思います。

次の乗り物はデジタルトランスフォーメーション(DX)によるイノベーションから生まれると思います。4年前にアメリカで見た「アマゾンゴー」は新しい乗り物の1つだと思いました。

DgSという業態が日本で20,000店以上に発展して、さらなる成長をしていくための新しい乗り物への挑戦が始まる時代がこれから到来すると感じています。

常に新しい乗り物に挑戦して、今まで蓄えたノウハウや人材を「リスキリング」して、次の成長・発展に結び付けていくのか、大変興味深く見守っていきたいと思っています。

─ありがとうございました。

 

《取材協力》

ハックドラッグ創業者
ウエルシア薬局株式会社名誉顧問
石田 健二氏